武老愚「師範室にて」

剣道、居合道の稽古後に師匠から伺った話や、剣遊会の予定等不定期に書き込みます。 ご意見等、お寄せください。なお、不適切なトラックバック、コメントは管理者の判断で削除いたします。

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香の香り

先日の地区合同稽古会にて、範士八段高崎先生がお見えになり、固辞されるなか玄関口から防具を受け取り着替え等のお手伝いをさせて頂いた。
防具袋を開き先生の防具を出そうとした時、ほのかな香の香りがした。
先生は面の中と防具袋に各1袋づつ香袋を忍ばせ、防具独特のカビと汗が混ざった臭いを香袋を入れておくことで防いでいる。おそらく、当然ご自分で防具を出すことも多いと思うが他の者が準備をお手伝いした時に不快な思いをさせまいとの心遣いでは・・・と感じたのである。
モノの本によると、戦国時代の武士は衣服、鎧に香を炊き込み戦に出陣したと聞く。
昔から世界に類の無い程の風呂好きで常に清潔にしていた武士達の戦に赴く嗜み、美意識の現われか。

稽古の帰りがけに、高崎先生から香袋を頂いた。
私も防具袋に香袋を入れ、武士の風流を真似ることにした。
少しでも爽やかな剣道をしたいものである。
  1. 2011/11/20(日) 18:09:22|
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攻めはセキレイの尾のように…

今月の高段者剣道研究会・定例稽古会で高段者としての攻め方がテーマとなった。
範士八段N先生から・・・遠間から触刃の間、触刃から打間へ攻めながら間を詰める訳だが、ここまでの攻め方で位が解る。
一般的には相手の剣先を表・裏と押さえながら徐々に間を詰める。
又は剣先を相手の喉元に付けグーと攻め込む。触刃まで攻め込み、打ち間まで一気に攻め込み打ちに出る。
と様々だが、現代剣道の元となった一刀流(北辰一刀流)の攻め方に「鶺鴒セキレイの尾の如く」という教えがあり、それを研究してみたい。
セキレイの尾の如く…を細かく剣先を上下に動かし攻めるのであろうか?剣先を忙しく上下に動かすと気が抜けるような気がする、同時に単に調子を取りながら攻めて、本当に攻めが効くのであろうか?
*先生が竹刀を採り竹刀を細かく上下させ間を詰めるが、余り威力を感じない。
同じセキレイの尾をこのように遣ってみたらどうか?と左手元は動かさず、右手操作で相手拳位置辺りまでサッと剣先を下げ同時に右足を進める。次に気を張った状態でユックリと剣先を相手竹刀まで上げ同時に左足を引き付ける。これを3〜4回繰り返すと遠間⇒触刃⇒一足一刀まで容易に攻め込むことができ、そのまま気攻めを掛けられると、どうしても打ちに出てしまい、出頭の面または小手を討ち取られてしまう。

攻め方の形は何とか理解できた。
セキレイの尾で攻め、攻め気の持続、左足ヒカガミの張り方、右足の遣い方を稽古で練り、何とか自分の攻めに生かしたいと思う。
先人が命を賭けて編み出した攻め口を簡単には真似ることが出来ないと思うが、この攻め方は絶対モノにしたいと稽古の目標を与えて頂けた貴重な稽古会であった。
  1. 2011/11/08(火) 17:13:37|
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稽古の仕方、もらい方

7月31日、高段者稽古会
数日続いた雨のためか涼しい中での稽古でした。
始めに範士八段高崎先生に懸からせていただき蹲踞から五分の稽古をお願いし、後打ち込みをさせて頂き終了。
88歳(米寿)とは思えない気力に圧倒されるが、何とか耐えて攻め返し面にいくが、出鼻を面に打たれる。攻め返した積りが攻めを緩められただけであった。高崎先生は打たれることを何とも思っていない。打たれても心が動かない打ちは認めてくれない。数合の後打ち込みをし終了。
全剣連・岡村忠典先生に懸かる。
前回の稽古では攻められ、下がって攻め返そうとしたところを更に攻められ、大きく下がらされ苦し紛れに打ちに出たところを真面を頂いた。今回は絶対下がらないことをテーマに先生に懸からせていただいた。
自分が下がらないためには常に先の気持ちで攻め、直感的にここと思ったところで迷わず打ち切るしかない。先生から攻められる前に何とか攻め、常に左足を右足に揃える位に引き付け、足幅を広げないよう意識して立ち合わせてもらった。岡村先生の攻めは強く、攻め返す間さえ与えてくれない。先生に攻められたら攻めに乗るようにして打ちに出る。小手・面が1本、岡村先生の攻めを下から攻め返しそのまま打ちに出て小手を1本、先生が参ったと言ってくださった。後は打ち込みの気分で自分から攻めそのまま面、間を切ることなく面の打ち込みをさせて頂き終了。

稽古終了後、岡村先生から高段者としての稽古の仕方、稽古のもらい方についてお話を伺った。
道場での稽古で基立ちに懸かる場合、以前は切り返し、打ち込みでおしまい。基立ちに立っている先生と互格稽古ができるレベルではないよ…もっと練りなさいと言う教えであった。
何回か懸かっている内に基立ちの先生から切り返し、打ち込みの後、三本と声が掛かり始めて互角稽古をさせてもらうことが出来たが、ここで常に先を掛け先生の攻めを跳ね返すような稽古をし、待ちの気分で返し技、応じ技を遣おうものなら、その時点で打ち込みの声が掛かり終了。また切り返しからやり直し、先生から三本の声を掛けてもらうまで必死で懸かったものである。
基立ちの攻めを打ち破ることを繰り返す内、始めは障子紙に穴を開ける程度の攻めが、襖紙になり、板戸となり最後には鋼鉄の扉をも打ち破る攻めができるようになるのです。
高段者として基立ちに懸かる時、始めから待ちの気分では懸かる意味が無い。これは五分の気持ちになっていない。この様な稽古は道場だからこそ出来る稽古なのだ。
一般的には体育館等で集団稽古で号令を掛け画一的な稽古をしている弊害が出ていると思える。
生涯剣道を続け、向上させるには自ら懸かる、先を掛ける稽古をしなければ、自分だけ楽しめれば良い…といった剣道に陥ってしまう。剣道を楽しむ・・・相手を叩くでは意味が無い。自らを向上させる剣道をして欲しい。
まさに、本来の剣道、スポーツ的剣道から武道的剣道への警鐘であった。
  1. 2011/08/01(月) 09:21:58|
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全剣連主催居合道地区講習会・閉会式にて

6月4・5日全剣連主催・居合道地区講習会/東京に参加した。
私達のグループで講師を担当して頂いた静岡・範士八段Y先生には大変感銘を受けた。
・この機会は強化ではなく講習である。
・指導的立場である高段者として段位に相応しい居合とは、技術もさることながら武道論、芸術論、解剖学、文化論、歴史と幅広い知識と見識を基礎に、如何なる質問にも応える能力、遣って、見せて、遣らせる能力が必要。
・指導者は教えるばかりが能ではない、教え子に優秀な者も多い、教え子にはその道のプロも多いはず。彼らに謙虚に教えを乞い、咀嚼し、飲み込み、腑に落とし自分のモノにする能力も必要である。
・技術指導では、鞘引き・引き手は何故必要かを物理学の観点で解かれ、理合の理解に手っ取り早い方法は、安全な距離をもって実際に斬りかかってみればよく解る。等々 改めて居合を理解する良い機会を得たと感謝している。

さて、閉会式の挨拶の折、東京都連役員のO先生から5月30日全剣連よりI剣道範士八段が相撲協会の依頼で、横綱始め全ての力士、行事、親方、協会役員を前に武道論の後援を行ったとの話を伺った。
その中で、武道は日本固有の文化で、ただ強いだけでは評価されない。
少なくとも剣道は着装、姿勢態度を勝負以前に重要視している…に触れたそうである。
何故なら講演前に協会役員と打合せの為、控え室で待っていたところ、講和を聞きに来る力士達が窓の外に見えた。彼らは浴衣姿で歩いているが帯を正しく結んでいる力士が殆ど居ないのに愕然とした。
協会役員と打ち合せに会議室に行くと、全員がジャンバー姿であえて何故ジャンバーなのですか?との問いこれが制服ですと説明を聞いたそうである。
力士達の受講する姿勢は体型のせいかも知れないが、殆どが椅子の背もたれに寄りかかり、腕組み状態、親方衆の中には居眠りをしている者も見受けられたそうである。
相撲協会が抱えている問題は、日本の伝統文化、武道ということを力士の教育ではなく親方衆に徹底的に叩き込む必要を感じたが、長年当たり前のように遣っていたことは直ぐには直せない。新弟子時代から武道とは何ぞや、日本文化とはなんぞや…という教育が必要ではないかと感じた。
剣道もこのままで良いとは決して言えない。形だけの蹲踞、当てて勝つことだけに腐心する指導者、剣道も明日は我が身と襟を正し共に研鑽したいものである。・・・!!

我々のグループを担当された静岡の範士八段Y先生と、おっしゃっていることは殆ど同じ、何故居合道を稽古しているの・・・?と自らに問え、昇段するため?試合に勝つため?それは稽古している手段に過ぎない。
七段教士として、諸々テーマを頂いた講習会であった。
  1. 2011/06/06(月) 09:56:44|
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剣道としての気構え

師は常々「剣道は美しく、強くならねばならない。試合に勝つ強いだけでは単にスポーツである、剣道はスポーツ的な要素を持った武道であり自己の鍛錬、精神の在りように美しさがある。」

教育系大学の剣道部を卒業し中学校の先生となった者が立ったままで防具を着装したり、自分の竹刀は道場に立て掛けたまま、道場の師範室はゴミだらけ、まったく情けない。
彼は師範室は倉庫、防具・竹刀は道具としてしか見ていないようだ。少年剣道部を卒業していった中学生が剣友会の稽古時に立ったまま防具を着装していたのを見て、怒ったのだが、原因はここにあった。教え子は先生の後姿、立ち居振る舞いを真似るものである。

また、高段者剣道研究会の稽古時に県剣連会長が稽古に来てくださり、同じようなことを話していた。
「館長は家で言えば亭主であり、稽古に来ているものは間借り人。亭主が稽古しているのに間借り人がさっさと面を外し、腕組みをして稽古を見ているのはオカシイのではないか。文化的側面を無くしてしまったら、柔道がJYUDOに成ったように剣道がKENDOになってしまう。ある国では通常の稽古、試合時に立ち礼だけで蹲踞を省略してしまった。つまり剣道を文化的に捉えるのではなくスポーツとして捉えているだけで打った打たれた、勝った負けただけが追求され正にKENDOである。少なくとも高段者と言われる者は教養を高め普段から謙虚に一生勉強する気持ちが欲しいものだ。」
「八段審査であんなに当たったのに落ちた。1本も当たっていないのに合格している。と良く聞くがそこが解らなければ、いつまでたっても合格はしない。」「地元で先生と言われる者は、段位が高ければ立派なのではない、誰が見ても立派と評価されるように律して欲しい。」

人の振り見て我が振り直せ…!!である。
  1. 2011/05/14(土) 10:45:18|
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